大福 - daifuku -
All What Human beings Do Is Music!

だからよ
2018.8.11

悲しいと嬉しいは同じエネルギーだと思うのよね。

 

だからよ。

 

悲しい悲しいってだけのジメジメしてる奴はいじけてるだけに見えるんだよね。

美意識
2018.8.7

君は誰だ

 

名前や職業や性別などは全く役立たずで

人間なんてものは美学でしかない

 

美しいとはなにか

 

君はなにを美しいと思うのか

あるいは害悪ですらある
2018.7.24

具体的な行為を伴わない哲学のひけらかしほど浅はかで見苦しいものはない。

どこかで聞きかじった大仰でゴリッパな言葉をわかった風な顔で。

 

そうなのだ。

顔つき、目の色。

本当の重みがあればそのように震えるものだ。

 

「問題は何を言ったかではない、誰が言ったのか、だ。」

ピカソがこう言ったとか。

 

 

現代、端的に表す言葉がある。

 

「お前がゆうな」

 

である。

ちょっとしたアレで世界なのね
2018.7.14

最近、現実感がない。

生きているという実感はあるのだけれど、どうも世界に触れている気がしない。

 

考えてみれば人間なんてあやふやなもんで同じものを見ても時によって形が変わる。

高校生の頃に触れた音楽ではもう心は震えないし、昔観た映画は懐かしいばかりだ。その出来の良さや構成の面白さなどは変わらないが、僕に迫って来る感覚はもうない。

 

こちらに迫って来るその手応え。実感。

そういう世界の温かみが世の中に足りないのかもしれない。

あるいは僕が世界を前に呆然としているだけなのかもしれない。

 

もう少しで世界に触れられるという予感。

触れたいんだな。

 

ちょっとしたことで不意に、

「あ

コレが

世界だ」

感触を覚える。

その時、栄光の中にいる。

 

ちょっとしたアレで世界なのね。

誤解される
2018.7.13

誤解される、というのが誇らしくなって来たのはここ数年のことだ。

理解が及ばないものを遠目にだけ見て影でコソコソ、みたいな奴らに何を言われようが一向に構わないんだよね、おれ。

 

誤解される人間ほど素晴らしい。

 

太郎!

全くその通りだぜ。

 

手応えがないよ。

わはは。

天才というのは
2018.7.9

最近「天才」といわれることが結構ある。

冗談も含めてだろうが。

 

僕は天才というのは人物のことではないと思っている。

アイザックニュートン

アルバートアインシュタイン

彼らについても僕は天才とは呼ばない。

 

天才ってのは、そのひらめきの一瞬。

何かとつながった瞬間のことを言うんであって、人物それ自体はなんということはない。

ニンゲンは人間だ。

 

だから未知から既知の旅の真っ最中の子どもたちというのは「天才」に見える。

まあ、子どもの天才なんて内容がないのでなんということもないのだけれど。

 

そういうものだと思う。

対等。

上等。

 

俺は俺だよ。

HONZI 2
2018.1.16

「HONZIさんて今どこにいるんですか?」

と、くったくなく聞かれることがある。

いまだに。

 

みっち。が毎年イベントを企画してくれるのでこうやってHONZIのことを綴れるのはうれしいことだ。

HONZIと一緒にバンドをやっていられた時期というのは社会の空気ももう少し呑気で、

僕はと言えばそのうえさらに輪をかけていっそう呑気に生きていた。

「くまちゃんの曲、好きやわ。」

こう言われたのがどんな状況でだったかうまく思い出せないのだけれど、

その時は「ふーん、そうなんだー」くらいの。

そんなことよりボードゲームしようぜ、カルカソンヌ。くらいの。

まったく呑気にもほどがある。

 

HONZIがいなくなってから結構曲作ったんだぜ。

HONZIだったらどう弾くかしらん。

今になって思ってもなあ。

 

HONZIとは「福」というバンドをやっていた。

HONZI、熊坂、スパン子、イデホフで4人のメンバーで、最高だった。

 

「そうだ退院してきたら復帰イベントやろう。「大福」とか言って豪華ゲストたくさん呼んで。」

人知れずそう思っていた。

 

あー、叶わなかったなあ。

しかたないから「大福」って名前で

お別れイベントみたいなライブを続けてるわ、おれったら。

 

 

いまだに

「HONZIさんて今どこにいるんですか?」

と、くったくなく聞かれることがある。

その訃報を知らされなかった人はどれくらいいるんだろう。

 

とにかくすげーバイオリン。

不世出。

これHONZIのことだ。

セッションが嫌い
2017.8.25

セッションが大嫌いだ。

セッションが好きという楽器弾きは少なくないけれど、

僕にはどうしてもあの調子で楽器が弾けない。

品が無いような気がしてしまって。

あるいはテクニックの理屈やら楽典的な理論が、音楽よりも先に来てしまっているようなああいう雰囲気にも馴染めない。

または演奏技術について4〜50年も前からそうやって拓かれたスリルはすでに疲弊し擦り切れてしまったんだろうか。

それで先人たちの言葉の模倣に終始してしまって、推し進め拓く情熱はがもはや枯れ果ててしまったのか。

…だとかなんとか、いろいろな意味やら言い訳をずっと考えて来て、それもまた当たらずとも遠からじ、とも思っているが、結局のところ

僕が、

僕自身の生身が、

セッションとかいう場所で

クソの役にも立たないような音とか

退屈極まりない時間を極限まで薄めたような音とか

またそのリズムとか

そんな演奏をしてしまう熊坂が許せないだけなんだな。

 

まだまだセッションが嫌いだ。

無条件にコントラバスを弾けない。

演奏するのなら新鮮な驚きを持って震えたい。

2017.8.20

我が足もまだ道半ば

目指すはあの旗

という

旗を立てなければならぬ

 

あの旗を目指すのだ

 

目的なんてちっぽけなものではなく

人類の軌跡ほどの壮大さで

そういうスケールで語ろう

 

そこでようやくコツが活きる

 

壮大な旗を

 

リズム
2017.5.1

何事においてもリズムが一番大事だ。

どこかがおかしい、というのは絶対にリズムに現れる。

そういうもんだ。

HONZI
2017.2.24

夏の終わり、あの日はとても晴れていた。

とても急な坂道を登っていく、その通いなれた道には曼殊沙華がマボロシみたいに咲いていたっけ。

坂道のどんづまり大勢の人が小さな平屋の家からあふれていた。

泣いたり笑ったり。

玄関を上がると、たくさん白いの花の中で彼女は寝ていた。

 

HONZIとスパン子とイデホフと僕とで「福」というバンドをやっていた。

ノルウェーでの演奏旅行は本当に楽しかった。韓国、ドイツ、オランダに寄って旅行気分で、持って行ったカードゲームは何だったかな。ヘックメックだったっけ。安いユースホステルで酒なんか飲みながらゲームに興じた。

リハーサルといえば川崎生田にあるHONZIの家に集まったのだけれど、楽器をケースから出す前にまあご飯でもということになり、イデホフがコーヒーを淹れテーブルを囲んでとにかくおしゃべりをするのが楽しくてだらだらと過ごしている間に陽が暮れてきて、坂道を下った国道沿いにあったレオという中華料理屋に行って一杯飲んで、家に戻って楽器出す気が起きないとか言ってトランプを出しては夜通し「ツー・テン・ジャック」。点数をつけてわいわいとやっていた。コントラバスをもって西国分寺で乗り換え、立川で乗り換え、登戸で乗り換え、最後の急坂を登り切って、ケースから出すことがないという。今考えると本当に無駄な体力使ってたもんだ。

よく飲んだのは赤ワインだった。

 

あるときレコーディングをしていて、コントラバスソロで一曲やるという話になった。

じゃあ弓でメロディをヒト回しと、何テイクか録ったのだけれどもう一つピンとこない。

「くまちゃん、弓をいっぱい使ってかっこよく弾いたらええんや。」

このアドバイスは一生忘れない。いいテイクが録れた。その頃の僕にしては、だけど。

 

そうだった、コントラバスの弓はHONZIに教わったんだ。だいたい僕は独学でやってきたし、ミーハー根性でフレンチボウなんて使っていたのだけれど持ち方すらよくわかっていない。それでHONZIの弓を見て真似ていたからあの頃僕の弓の持ち方はバイオリンのそれだった。間違えて覚えちゃった。今はもう矯正して直したけれど、当時は腕が変な風に疲れるし弓の毛はどんどん切れるしおかしいなと思っていた。

「あー、くまちゃんもそうやって持つんやねー、あたしもそうなっちゃうんよねー。」

って、HONZI見て覚えたんだからそらそうだよ。

 

郷愁というんだろうか。

あの頃の空気感が、いとおしい。

まだまだ書ききれない。

最後の最後
2017.2.9

最終的に誰かのせいにできてしまうようなことなど、虚しさを募らせるばかりだ。

そんなモノを僕は生き甲斐とは呼ばない。

 

かえるべき自分
2017.2.5

誰とあっていようとも

何をしていようとも

確固たる時をすごすには

自分を一点に鋭く置いて

そこに立ち返り続けなければ

あやふやな、あってもなくてもいいような

かぼそいものになってしまうんだろう。

かえるべき自分をいつでもどこにでも見つけること。

全ての時に筋が通ってみえる。

不安を抱えている人へ
2017.1.26

安心してくれ、全部が壮大なギャグだ。

横暴でも幼稚でも
2017.1.24

どんなに馬鹿げた事柄であろうとも

心底信じたモノであれば

内臓から絞り出したみたいな声になって

強いリズムになる。

嘘っぽい音に溢れているから

流されてしまうんじゃないかしら。

嘘ついたらすぐわかるぜ。

リズムで。

 

くっそー。

いわせてもらうと、俺に返ってくる。
2017.1.23

当事者以外があーだこーだいうからおかしなことになる。

なにその上から目線。

かんけーねーじゃん、おまえに。

ひまなの?

 

という、僕とは関係ない事柄について思ってしまう熊坂は暇なのか!?

おい、急げ!熊坂!

わはははは。

どうしようもないこと
2017.1.4

昨日だか、都会に行った。

そこには忙し気に動き回る人たちがたくさんいたけれど、なんとも頼りなさげに目にうつった。

いわゆる里山と言われるようなこの場所へ越してきてから5年ほどたったけれど、

ここでは本当にどうしようもないことが起きる。

 

春の突風は馬鹿にできないし、去年の秋の長雨だって稲刈りは遅れるし、ちょっと前には熊が町に多数降りてくる事態。

農作物はサルにやられるし、雪がなければ除雪の人達は食いっぱぐれる。

本当にどうしようもない。

そんなわけでなのかこの辺の人の中に「おまえのせいだ!」といって糾弾しつくすみたいな雰囲気がほとんどない。

誰かのせいにして気分が清々してもはっきり言って何にもならないことを知っているのか、あるいはそんな暇がないのか。

山があるから仕方がない。

雪が降るから仕方ない。

この辺のおっちゃんたちは強い。し、触れてみて本当に面白い。

さりとて面倒くさくもある。

けれど実体のあるやり取りはあったかいもんだ。

きっちりと傷をつけてくる。

傷を作らないと大きくなれないなんて思っている僕にとってはありがたい。

 

で、振り返って住み慣れていたはずの都会というやつを眺めてみると、

全てが人間の手で設計されて、そのシステムの範疇で回っているから、

どこかに不具合が生じればそれはシステムの欠陥ということになり対策を練りシステムを作る。

加速度的にどんどんとシステマチックな変貌。

もちろん超便利だし嬉しいことも刺激的なこともたくさんあるから、やっぱり素敵だとは思うけれど、

人間の小ささを助長しているようにも見える。

全ての人に個人の範疇が与えられていて、なるべくストレスなく尊重という名の無関心で、

あるいは隠された好奇心にさらされながら、スーパーで買ってきた食材を調理して食べる。

範疇を超えればシステムがうまく回らないことを直感しているんだろう。

動きが小さい。

全ては止まっていて、人間の手で動かし構築しそこに暮らす。

僕は世界中の全てのものが勝手に目まぐるしく動き回るものだと思っているので、

都会のあの雰囲気には懐かしさと一緒に味気無さも感じる。

里山の面倒くささと

都会の味気無さ。

どっちが偉いという話ではなくて、

どっちもあって人間なんじゃないかな。と思うのだ。

 

まあ、僕にはこちらが性に合っているようだ。

 

だけれども、

そこに留まっているものはない。

本当は全てが勝手に動き回っている。

これは何処であろうとも同じだ。

と思う。

あーだこうだ。
2016.3.15

自分のことをやる。
本当のことを言えばそれだけなのだ。

けれども世の中を見渡してみれば
他人のことをとやかく言ってるだけ、
そんなやつばかり目立つ。
そんなに暇なんだろうか。

熊坂にはそんな暇はない。
なにしろ今生を賭けている。

あーだこうだ言う暇はない。

動け。熊坂。