ドレミファの不自由さ。
その壁にぶつかる音楽家は多いと思う。
特に鍵盤楽器なんかはどうしたってはみだすことができない。
どうしても五線譜のはっきりした個別の音階から逃れられない。
バイオリンなんかの譜面で「微分音」とかいう大仰な名称で半音をさらに細かくしたりして
ナントカごまかそうとしているが、結局のところ世界の成り立ちをその哲学で音楽に表すには無理があるんじゃないかとさえ思う。
さて祭囃子。
篠笛の音階はいわゆるドレミファではないし、採譜という観念もなかったからそのすべてが口伝だったようだ。
口伝というと僕なんかはロマンを感じてしまって興奮するのだが。
このあたりの神楽は昭和27年絶えてしまったものを山奥の別の村からお囃子を持ってきて復活させたんだとか。
絶えてしまった理由は聞いてないけれど、おそらく大戦が関わっているんだろうと思う。
一度絶えてしまっているので、口伝で伝えていくはずの「ジゴト」を板切れに書いて保存してある。
冒頭はこうだ。
ヒー ヒャラゝゝ トヒャラヒオ ヒャラゝゝゝゝゝ
トヒャオヒャララ ヒャララ ヒリリー ト ヒャラヒオ ヒャラゝゝ
云々
こんな感じで続く。
そのうち「ヒャライットロ」だの「オヒヨ」だの「チリリチチチ」だのが出現してきて大変にオモシロイ。
楽曲を紙に書き留めているのでこれはこれで立派な譜面だと思う。
この「ジゴト」を丸々節をつけて暗譜で歌えなければ、キチンと笛を吹けるようにはならない。
楽器と歌と人間が完全にシンクロする曲の伝え方だと思う。
下手に譜面が読めるとかいうひとの心ここにあらずみたいなピアノのような演奏には絶対にならない伝え方。
人が記録無しに伝えていくから少しずつ形は変わってしまっているんだろうけれど、それはそれほど問題ではないと思う。
そんな些末ことよりも、人がそこで生きて、その人の生きた音を出せることの方がよっぽど重要だ。
下手だろうが何だろうが。
死んだような楽器演奏を聴くにつけ、この村の祭囃子を誇らしく思う。
もうじき祭り当日だ。