大福 - daifuku -
All What Human beings Do Is Music!

オンガクのこと

祭囃子2
2019.9.12

ドレミファの不自由さ。

その壁にぶつかる音楽家は多いと思う。

特に鍵盤楽器なんかはどうしたってはみだすことができない。

どうしても五線譜のはっきりした個別の音階から逃れられない。

バイオリンなんかの譜面で「微分音」とかいう大仰な名称で半音をさらに細かくしたりして

ナントカごまかそうとしているが、結局のところ世界の成り立ちをその哲学で音楽に表すには無理があるんじゃないかとさえ思う。

 

さて祭囃子。

篠笛の音階はいわゆるドレミファではないし、採譜という観念もなかったからそのすべてが口伝だったようだ。

口伝というと僕なんかはロマンを感じてしまって興奮するのだが。

このあたりの神楽は昭和27年絶えてしまったものを山奥の別の村からお囃子を持ってきて復活させたんだとか。

絶えてしまった理由は聞いてないけれど、おそらく大戦が関わっているんだろうと思う。

一度絶えてしまっているので、口伝で伝えていくはずの「ジゴト」を板切れに書いて保存してある。

冒頭はこうだ。

 

ヒー ヒャラゝゝ トヒャラヒオ ヒャラゝゝゝゝゝ

トヒャオヒャララ ヒャララ ヒリリー ト ヒャラヒオ ヒャラゝゝ

云々

 

こんな感じで続く。

そのうち「ヒャライットロ」だの「オヒヨ」だの「チリリチチチ」だのが出現してきて大変にオモシロイ。

楽曲を紙に書き留めているのでこれはこれで立派な譜面だと思う。

この「ジゴト」を丸々節をつけて暗譜で歌えなければ、キチンと笛を吹けるようにはならない。

楽器と歌と人間が完全にシンクロする曲の伝え方だと思う。

下手に譜面が読めるとかいうひとの心ここにあらずみたいなピアノのような演奏には絶対にならない伝え方。

人が記録無しに伝えていくから少しずつ形は変わってしまっているんだろうけれど、それはそれほど問題ではないと思う。

そんな些末ことよりも、人がそこで生きて、その人の生きた音を出せることの方がよっぽど重要だ。

下手だろうが何だろうが。

 

死んだような楽器演奏を聴くにつけ、この村の祭囃子を誇らしく思う。

もうじき祭り当日だ。

祭囃子
2019.9.3

今年もあっというまに9月だ。

生活ががらりと変わって、本当に矢のごとく過ぎていったな。

 

さて9月と言えばこの地域のお祭りがあるのだけれど、この何年かそこで笛を吹かせてもらっている。

神楽保存会にも入った。

あいかわらず吹く楽器は苦手だ。

 

このお祭りというのが皆が素朴に保存してきたいわゆる村の祭りである。

大掛かりで人の集まる奇祭や大祭も見ごたえはあるのだろうし、人が大勢関わっている分放出されるエネルギーも大きいとは思う。

けれども、ここにひっそりと残っている小さなお祭りの雰囲気がとても気に入っている。

 

集落の真ん中に農業用に補正された川が流れていて、東西二つに村を分けていて、西と東で祭りの曲が違う。

これが恐ろしいほど良く似ているので、東西二つの曲を一人の人がマスターするのはほとんど無理だ。

なんでも昭和27年に昔の祭りが途絶えてしまって、小川村という地域の曲を二つに分けたんだそうだ。

 

「ジゴト」と、還暦に近いおっちゃんの手ほどきで吹けるようにしていく。

「ジゴト」というのがアレだ。つまり「ヒャラヒャラ、ヒーヒャラオロ…」とかいう詩とも歌ともとれない

文字で書かれた楽譜だ。もともとは文字ですらない口伝だったんだろうと思う。

この「ジゴト」でもって曲の節を歌えるようにならないと、キチンと歌いまわせない。

「なるほどこういう保存の仕方があるのか」と。

初めてこれに触れたときは目からうろこが落ちた。

 

なるほど音楽の在り方がここに一つ結晶になって残っているんだなあ、と。

 

つづく

諦めている
2019.5.1

ぐるっと周囲を見渡してみる。

 

諦めているようには見えないが、可能性に賭ける姿はほとんどない。

 

ああ、そうだった。

俺のことだけで良いのだ。

 

良いリズム。

ここだけは絶対に諦めない。

俺はね。

 

あとのことは知らん。

今なにをするのか
2018.9.15

全ては今から考えなければならない。

 

この時、この瞬間になにをするのか。

決意する。

 

意思が強ければ激しく共振を呼ぶ。

 

決して最終的な理想なんてものから逆算して今の姿勢を決めてはいけない。

それでは拓ききらない。

爆発しない。

 

思ったようにならなくていい。

むしろ思いもよらない事が起きた方がオモシロイものになる。

怖気付いてはいけない。

 

音符は決まっていようとも、ただ時流に流されるみたいにしていては、なにも生まれない。

 

味わうべきもの。

 

我が人生を、おもしろく。

爆発的な
2018.9.14

ぐるっと身の回りを見てみると爆発的な音楽が圧倒的に足りないと思う。

どれもこれもショーウィンドウケースの中でさらりと並んでいる。

全体的にストレスがなく、なんとなく聴き心地のいい、流されて消費されることを頭から受け入れている風情だ。時代に流され、消えて行く。初めからその運命を諦めている。抗っていない。

 

強敵に抗う姿が感動するんじゃないのか。

 

自ら枠の中に収まって安穏と消え去ろうとするものを作ることはできない。

消えるかどうかは関係ない。

抵抗するか、どうか。

 

ストレスのない充実が無いように、リスクのない充実も、また無い。

 

よし、リスキーに行くか。熊坂。

全てが
2018.8.31

お前の問題なんだぜ

参加しろよ、熊坂。

それに。

 

でだ。

 

「わからない」とか言うなよ。

わかろうとしてないだけだろ。

リズム
2017.5.1

何事においてもリズムが一番大事だ。

どこかがおかしい、というのは絶対にリズムに現れる。

そういうもんだ。

横暴でも幼稚でも
2017.1.24

どんなに馬鹿げた事柄であろうとも

心底信じたモノであれば

内臓から絞り出したみたいな声になって

強いリズムになる。

嘘っぽい音に溢れているから

流されてしまうんじゃないかしら。

嘘ついたらすぐわかるぜ。

リズムで。

 

くっそー。

次の瞬間に時空を震わせるソレを掴み取りにいく
2015.2.25

前のめり、と言えば良いのだろうか。
いや違うな。
それでは落ち着きどころがない。
行動すべきコノ瞬間というのがある。
それはその時に掴まなければ、瞬く間、逃げていってしまう。
それで、もうどうしようもない。

グルーヴというのは、
そういった掴まなければならない瞬間を
取り逃さずに進んでいるときにだけ
ダイナミックに転がりつづける。
降り幅は大きく、
これでもかといわんばかりに
心身に共鳴してくる。
続けば続くほどに、その渦は果てしなく大きくなる。
踊らずにはいられない。

合奏の場合、取り逃がしてはイケナイその瞬間というのは各々で違うかもしれない。
チグハグになることだってあるかもしれない。
しかし僕からしてみれば、ギクシャクしていようがいまいが、まいまいが。
あっ、駄洒落を入れてしまった。
えーと、チグハグだろうがナンだろうが、
それぞれのリズムが活きてさえいれば、
それは面白い渦になっているもんだと思っている。
だから幼稚園児くらいの子どもの合唱なんかは素晴らしいんだ。

オトナになってくるとギクシャクすることを恐れるあまり、
自分の呼吸を殺してしまって、
外側にあるナニかに、
あるいは他の誰かに、
とにかく自分から漏れ出る呼吸ではないもの
ソレに合わせて音を出したりする。
人間としてのリスクも無く奇麗なカタチになる。
無難、というヤツだ。
この「方法」は最もイケナイことだ、と僕は思う。
それでは君がやる意味が無い。
合わせる相手が例えメトロノームでもだ。
なんにせよ合わせちゃあ、ダメだ。
絶対にダメだ。

合奏の面白みは、メトロノームでテンポを合わせて奇麗にハーモニーすることではない。
自分の外側にばかり合わせていたら、その瞬間を掴み損ねる。
必ず遅れる。
必ずモタついたようになる。
そういう姿勢ではグルーヴなどという現象はひとつも現れない。

合奏の本当の面白みは、個人個人の様々な深さの呼吸が、同期していくところにある。
人数分の呼吸が極限まで同期すれば、それこそ宇宙にまでその渦は届く。

ソコにこそ合奏の感動がある。

誰かと呼吸が同期していく感動のことを、
君だって知っているだろう。

君の呼吸が無いところに
君のリズムは無い。

ぬるい
2014.8.27
ぬるいリズムに触れるにつけ
その共振の小ささに
怒りにも似た感情がコミアゲルのだが
それはつまり矮小を赦さないという自縛。
それと、盲目。

ぜってー赦さねー。

だからオンガクなどキライなんだ。
ポップス
2014.1.27
ソレがポップスかどうかという問題には、
政治力に似たモノがあるから、
そんな些末な事を気にしすぎれば、
ジブンに遅れを取る事になる。
ジャズ
2014.1.22
今日はjazzの日なんだそうだ。

ジャズってのはつまり人間の限りない好奇心に委ねきる冒険心のことだから、
ソレが無いジャズなんてなんの面白みも無い。
ロック
2014.1.19
「ロック」というのは激しく個であろうとする精神の情熱だ。
だから安易に「みんなで」だとかいうのには興ざめだ。
ソレは超個人の激烈な情熱から見返されたモノでなければならない。
舞台
2014.1.17
ステージの上であるということについて。
ソレを突きつめていけば、どうしたって「儀式」というコトガラから離れられはしない。
音楽だろうが、演劇だろうが、お笑いに至っても、その本質は変わらないと思う。その辺りを安易に考え
ては大きな落とし穴に落ちてしまう。というか、僕が舞台へ上がる時のモチベーションはそこにしかない。
ニンゲンが集まって舞台の上を眺めるというソレは、個なんていう小さなものに閉じ込められてしまった
ナニかを解放させる契機だ。それがゴスペルだろうが、精霊会だろうが、アリストテレスのいうところの
演劇のカタルシスだろうが、歌舞伎だろうが、説法だろうが、落語だろうが、獅子舞だろうが、何だろう
が、とにかく人を集めて何かを魅せるということのその根本は儀式から派生したものだと思う。
だから、素晴らしい舞台というのは、それがどういう形態をとっていようが、観客の魂を掴むし、儀式的
な新しい人間誕生の感動を生む。古の頃よりも、個々が持つ宗教観や、理念や、境遇や、歴史が、多種多
様になってしまったから、舞台の方も多様化しているのだろうけれど、それで結局先細りの洗練を繰り返
していて、その出発点が見えづらくなってしまっている。いまや本質を見失うギリギリのところまで来て
いると思う。早急に、歴史も宗教も飛び越えたところにある「人間」という素朴で過激な生き物を対等に
眺め返す必要があると思う。

僕という個を使ってそこまで踏み込んでゆく。そこには本当は何も無いのだろうと思う。民衆なんていう
のも存在などしないのかもしれない。
けれども、人を集めて舞台に立つ以上は、その場に居る全ての人を「人間である」というポイントでもっ
て、それぞれ全部を繋げなければならない。

だからして、僕はといえば舞台上で「現代」というその全てを何もかもぶち壊したくなるのだ。

手軽にカンタンに楽しめる
2013.12.9
音楽が救われていないのだそうだ。
しばしば周囲から聞く。ところがようく聞いてみれば救われていないのは単に音楽業界の事だったりして、どうして
こういう矮小な話になってしまうんだろうとその窮屈さに嫌悪する。だいたい音楽なんてモノは最も手軽に楽しめる
人間のツールなのだから、音楽があるという時点で音楽自体は救われているじゃないか。どうも音楽にはなにか特別
の破廉恥なアカデミック志向があるんじゃ無いかと思う。

僕の嫌いな言葉は「やっぱりプロは違うわね」だ。僕もそこそこ仕事してきて幾人かのプロミュージシャンを見てき
たけれど、深く共感できる演奏者なんて言うのは極めて一握りだ。まさにピンからキリまで、の世界。それを一括り
にして「プロ」とか言う言葉にミーハーな権威主義を持ち出して、さらには自分を蔑んでまで音楽家をあがめるよう
なあの態度は許せない。いったい己の感受性をなんだと思っているのか。社会全体にそんな雰囲気を見るにつけ嫌ん
なっちゃう。職能的で無味無臭。自分が誰よりも上で、誰よりも下なのか。相対的な価値観しか持ち合わせがない。
自分の知らない世界の深さを計る事が出来ない割に、情報ばかり募っているから権威にすがる。音楽家の方もそれで
いい気になっていたりして。僕に言わせれば本当にクダラナイ。そんな根性でナニが「音楽は素晴らしい」なんて笑
えもしない。自分の大きさで素晴らしいと思ったのなら、よく分からずとも素晴らしいと胸を張って感動すればいい。

ところで音楽の本質は「リズム」と「歌」以外にはありはしないと思う。あとは装飾であって本質ではない。だから
本来人間ならば誰にでも許された遊びのはずなのだ。ステージ上となるとまた別の話が入り込んでくるけれど、音楽
ってのはどんなに幼稚なものであれ、音楽は音楽なのだから、みんなもっと楽しめるんじゃないかと思うが、大勢集
まって大声で歌うなんて久しぶりにやっていないなあ。

リズム
2013.11.27
緊張して胃が痛くなる。
誰でも一度くらいは経験があるだろう。人間の内側の出来事が表側にドッと手応えを持って溢れ
出る。これがリズムの源だと思う。
僕は音楽的な場所で仕事をしてきたからか、人を見るとき、その個々人の輪郭を彩るリズムが大
いに気になる。その各々独自のリズムは歩き方、顔の表情、買い物の最中なら紅ジャケを取るそ
の腕の伸び方など全てにおいて現れるのだが、とりわけその個人の心底を覗けるのは話をしてい
る時だろう。嘘をついていたり、なにか取り繕っていたり、自分とはおよそカンケイのない流行
話など、いくら流暢だったとしても、リズムが弱い。こちらに響いてこない。この人はいったい
どこにいるのだろう、とか思ってしまう。逆に無口な人が突然口に出す一言一言が多少の吃りを
加えながらもアッと驚いてしまうくらい強いリズムだったりする。

音楽的に「リズム」などと言う。とかく流暢で澱みがないのが良いとか、テンポが安定せずモタ
ついたり速くなったりするのは悪い、なんて話になりがちだ。確かにテンポが安定していれば聞
きやすいけれど、それだけが答えならば機械にでも任せておけば良いことになってしまう。そん
なもん、僕に言わせればクソクラエだ。いったいなんでそんな薄っぺらい話になってしまったん
だろうか、オンガクだなどと言って。がっかりする。
安定したテンポ感だのナンダの。それは単に結果であって、表面的な部分のことだと思う。もっ
と深くにずっと重要なことがある。その瞬間その音に、例えば、欲しいと思った紅ジャケを手に
したのか、あるいはちょっと高いけれど隣においてある鱈の切り身と迷っていたのか、そういっ
たようなセツジツな問題が本当に現れているのかどうか。つまり人間内部の精神活動とでもいう
のか、その目には見えない精神のダイナミクスがリズムの説得力となる。だから精神活動を無視
するような在り方ではリズムは弱くなるのだ。僕はこのことを内蔵と直結したリズムと呼びたい。
内蔵は体内で純粋に宇宙と呼応していると僕は思う。などと言うと難しくなっちゃうが、単に太
陽が弱くなってくると「キュウリはもういらないや」くらいの事柄でもあるのだけれど、そこを
無視してハラに響くオンガクも糞もない。

音楽において一番重要なのはリズムだ。
それは内蔵と呼応していなければ全く意味がない。
暢気で安易
2013.11.19
「ジャンルは何ですか?」なんて、暢気で安易だと思う。
ジャンルなんてモノはそのほとんどが僕が生まれる遥か昔に出来上がってしまったもので
そんな枠の中で捉えられるもんではないと踏ん張っているけれどこれはこれでなかなか難
しい。なんと言葉を尽くしてもやはり見てもらわなければいかんともし難いことは多々あ
るし僕自身が「大福」なんて言うジャンルを作りそうになってしまう。まるで笑い話だが。
別にジャンル分けがまったく悪いとは思わないが、要は捉え方の問題である。

音楽を捉える、というのはいったいなんだろうか。
僕は一時期「ホンモノの音楽」というものがあるような気がしていた。
それはつまり「偽物の音楽」が世の大半を覆っているという、ややニヒリスティックな危
惧である。今思えばそれはそれでノンキで大仰、甚だ上から目線な視線だったが。

音楽の話をするときに、人間をオイテケボリにほうりこんでしまっては何も掴めないと思
うのだけれど、ジャンルというところでだけ話をしてしまうとその部分がすっぽりと抜け
落ちてしまう。人間である以上はそのヒト個人の絶対というもの夫れ夫れにあるはずで、
本当のところそこに触れ得る機会を人間は探しているはずだと思う。その絶対感の内側か
らジャンルという枠組みを捉えなおせば、それがいかに味気ないものなのかわかると思う
のだが。

どの音楽もホンモノの音楽だ。
が、それが現在、大半は縮こまっていると僕は思う。
絶対感が足りない。
職業のみで人間を紹介する現代的な現象と相似形で、その人というそのカタチをどこか外側
に相対化させたところで、安易な枠に閉じ込めてしまう。これでは精神の生活も枠に閉じ込
められて窒息してしまうし、なにより本当の個人の面白みが湧き出てこない。
先達のオンガクの巨人たちに逸話が豊富なのは、つまりそういうところなのだろう。
どんな社会であれ己の絶対感を無視できない人間が、その肌合いが、時代の先を歩いた。
「問題は何を言ったかではない、誰が言ったかなのだ。」
といったのはピカソだったか、だれだったか。
最近の、誰にでも言えるようなことばかりの歌に辟易する。
顔が見えない。まるでのっぺらぼう。
いったいに君は誰なんだ、と思う。
「奇をてらえ」ということではない。持ち合わせてしまったコンプレックスのギリギリに拓
かれた状態が見たいのだ。誰それより下手だの、上手いだの、そこには全く関係がない。
それが絶対、なのだ。

個人としての絶対。
これはどんな職業であれ押し出すことの出来るスリルで、人生の本当の楽しみと直結してい
ると僕は信じているので、その部分に触れられない場合の多さが嫌んなっちゃうのだけれど、
ジャンルなんて安易なモノだけに寄りかかっているような在り方を僕は全く感心しない。