大福 - daifuku -
熊坂義人は普段あまり大福をたべない、のだ
哲学的
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かえるべき自分
2017.2.5 Sun

誰とあっていようとも

何をしていようとも

確固たる時をすごすには

自分を一点に鋭く置いて

そこに立ち返り続けなければ

あやふやな、あってもなくてもいいような

かぼそいものになってしまうんだろう。

かえるべき自分をいつでもどこにでも見つけること。

全ての時に筋が通ってみえる。

信用する
2015.4.22 Wed

自分を肯定的に受け入れることと
他人を信じることは
同じことだ。

とことんまで自分の深さを知るために、
どこまでも否定してゆけ。

あんがいあっさり受け入れられたりしてな。

矮小にならない
2015.2.21 Sat

人間は宇宙の中心にはいないと思っている。
そのくせ、それで全部だと思っている。
全てが時空を循環しているという古代の信念こそ真理だと思っている。
例えば僕が僕でなくとも、どこかに僕がいてくれていると信じている。
だって、朝早く起きて車に乗り込んで雪の国道を走ってみれば、
此処にいる自分が此処だけにしか居ないなどとは、到底思えないじゃないか。

そういう精神が己に満ち溢れれば、
この味気ないゲンジツばっかりの世界から、
血みどろになりながらもスルリと抜け出して、
どこまでもゆける。

拡散しろ。
拡大しろ。
記号、熊坂義人。

とどめようとするな。

出会うということをあまくみてはいけない
2015.2.12 Thu

いったいにニンゲンなんてモノは具象的なことと抽象的なことと
その入り混じった世界に混沌としながらこの時間を流れている存在であるので
ただの一時も同一ということは無い。
まして他人ということになれば、自分とは全く関係のないところで
落ち込んでいたり、浮き上がってみたり、迷ってみたり、突き抜けてみたり。
実にとりとめがない。

「限界」という言葉がある。
可能性のギリギリのラインというのは、
「限界」にぶつからなければ本当には解らない。
限度を知るということは、実は可能性を閉じることなんだろう。
そうして、老いていく。

「条件」は身を縛る。
けれど、それによって精神は縛られないはずだ。
本当は一瞬ごとにその時を流れている人間が
その精神を縛る「条件」などありはしないはずなのに。
あっというまに鎖。

本当の人間同士の出会いというのは、
お互いの内側にお互いを発見しあうということだ。
それはまったく感動的な出来事だ。

新しい自分を誰かに発見しようとするなら
自分の範囲を広げようとするならば

君を前にして「無条件」でなければならない。
君を前にして「限界」をこえていかなければイケナイ。

ああ、そうか。

そうして出会えた自分は今生の広がりそのものであって、
その場所は誰にも奪われないのだ。

今まで見知った者同士が、初めて出会うということもあり得る。
出会った者同士が、また出会うということもあり得る。

アナタというオレに興味があんだよ!

ちっくしょう。

二元論などバカバカしい
2015.2.4 Wed

正しいもの。
悪しきもの。

対立する極端というのはあるのだけれど、
それは両極端とも同時に内包されているのであって、
どちらかがどちらかを一方的に弄び、
愚かしいなどと嘆くことはできないということくらいは、
解っているつもりだ。

それは悉くすべての物事に溢れている。

僕の中身は、両極端に引き裂かれている。

突破!

突破しようぜ、一緒に。
と、鏡を見ていうのだ。
それがどんな鏡であれ、宣言するのだ。

その瞬間に我が人生を賭けるのだ。

無関係
2014.3.14 Fri
人間において、関係にこそ意味がある。
その意味は個人において価値になりうるのだけれど、その価値もまたナニかとの関係の中で意味を得る。
意味を無限に連鎖していく。ソレが健康的だと思う。

関係が価値あるものになった時、それを後生大事に檻の中へ監禁していつまでも飼い殺していては、いつか
ソイツは湿気てねじれ、窮屈にゆがみ、果ては腐ってしまう。その臭気は生活する自分の精神も歪めてしま
う。これは悲劇だ。こうした悲劇は大小さまざま生活に隠れ潜んでいる。自分一人で抱えるには重すぎる悲
劇であったとしても、自分精一杯の大きさでいったん外へとむき出しにしてしまえば、バカみたいなものだ
ったりもするのだけれど。

僕に価値ある関係ができたら、その関係に負けたり折れたりする事無く、ときにはその関係を投げ出すよう
な覚悟を以てでもジブンを押し通す。そうでなければ僕との関係という鎖のギリギリ限界の強度は見えてこ
ないし、自分を曲げてまで大事にしたあげくどうせ腐るよりは、たとえ関係が潰れてもありったけの自分を
ぶつけてみて新鮮に目を覚ます方がずっとイイじゃないか。それでこそ意味になるときもある。

僕がベースを弾かなかった時期があるのはそういうことだ。

関係あろうが無かろうが、自分は全てに対して無条件な自分であるという気迫。
貫けるのならばソレは無責任ということにはならない。
これ超個人主義に必要な精神ね。
ゲイジュツとか言ってんじゃねーよ。
2014.3.8 Sat
一番の問題はソレがいったい誰なのか、だ。

誰なのか、というのは即ち職業の別の事ではなく、名前でもなく、当然国籍のコトでもない。
そんなことで「出会える」ほどニンゲンは鈍くなっていない筈だ。「出会う」というのは己の姿が見えない人間同士がお互い
を鏡にして相手の内側に自分を瞬間的に発見し合う事なのだから、名刺やら戸籍謄本やらに書いてあるようなことは単に煩わ
しいノイズでしかないと僕は信じている。けれど見渡してみればそんなモノではたしてどれだけ多くの人がニンゲンの何かを
判断しているか、その実態に危機感を覚える。多くの虚しさはソコからやってきているというのに。

超個人主義というのを実践していこうと思う。
僕が僕を超えた存在として人間を全うするという意味だ。僕は既に人類全体なのだ。全ての他人を愛するとかそういう殊勝な
事ではなく、個人を超個人的に生きていく。人間を全うする以上は、己の姿をあらゆる場所で発見していかなければならない。
路頭に迷う、これが人間の本来の姿だと思うからだ。迷いの途で自分を見つけ出しそれを投げ出してこそ自分がひらかれる。
人間は皆それぞれが迷路をさまよっている。こうしようか、いや、ああしようかなどと自問自答を繰り返す。壁にぶつかって、
悩み、意気消沈、鼓舞して進み、分岐点。人生なんて言うものは本来それ自体が未知への旅であり、自分で道を拓いていく以
外に人間が生きる方法は無い。

この世界を信じたい。僕が超僕として生きられる世界を信じたい。だから僕が己をさらけ出していくようなスタイルをとらな
ければ、消極的なくせに陰で頑固にわーわー言ってるだけの自分に対して無責任で卑しいただの貧乏人になってしまう。世界
を変えようなどとは思わないが、僕の人生が閉じる時、はじめて僕という世界の全貌が完成する。だけれどそれは僕という人
生の結果なのだから今この瞬間捕われるべきコトガラではないのだ。好きにやる。

岡本太郎が言う。芸術即人生だ。
個人個人それぞれの人間の時間の流れが有機的に関わってハプニングが起きる。その足跡ともいうべき作品群において、つまみ
食い的にエッセンスを薄めてビジネスモデルなんぞに嵌め込んでナニがゲイジュツか。芸術とはそのまま人生の事だ。それも超
個人的な人生だ。

超個人主義。

面白いと思う。
やってやろうじゃねぇか。
矛盾する
2014.1.7 Tue
安心を欲しがれば不安になり、安全を追えば危険は増し、快適によって不快が積もり、便利は不便を産む。

やらなきゃなんて頑張ろうとするとヤル気はスルスルと逃げていき、寝られないとなれば果てしなく眠く、逢
えない状況では無性に逢いたくなり、好きな女の子には意地悪したくなり、怪我病気によって健康を知り、死
ぬかもしれないというときに無限の力が燃え上がり、嫌いなものには魅力を感じ、遠く離れたモノにこそ引力
を感じ、性質の違うものにこそ同一を認め、似たものには悪態をつき、近くにあればよく見えず、速く走れば
時間は足りず、仕舞わば始まらず、手放さなければ手に入らず、道に生きようとすれば道に外れ、開けようと
すれば開かず、いっそ閉まったままで良いとすれば途端に開き、不自由無ければ自由も無く、弱さを認めなけ
れば強さも無く、秘密とくれば知りたくなる。

かようにニンゲン矛盾する生き物ぞ。
対立する精神に耐えかねて死する事勿れと、己に。

だからつまりだ。
平和なんて願ってたりしたら遠のくんじゃねーかな。
だいたい僕は平和なんて概念を信じていない。
抽象的な世界
2013.12.16 Mon
過激なことを言うの人が増えてきたような気がする。
健全だと思う。

僕は、ニンゲンというのは元来過激な生物だと思っているのだけれども、その過激の発現が社会問題的だったりすると
その熱は妙に枠にはめられて小さくなってしまう気がする。本当はその過激の源は人間の内側にいつだって燃え盛って
いて、ワケも判らずギュウギュウに爆発しそうなのである。それが世界に触れたがっている。そういうもんだと思って
いる。
ソイツは、僕の中で具象も抽象も呑み込んで蠢いているのだが、絶望的に身体に覆われている。カラダを裏返してでも、
僕個人一杯の、それら全てで世界を触りたいのだ。抽象的な世界と具象的な世界と、そのどちらもが当然僕の中にある。
そのどちらもリアルなのだがそれで世界中に触れたい。

闘うべきは抽象と具象の狭間にある自我なんだと思う。

「どこまでも広がっていきたい。」という願望は、身の内に、また外に。
僕の中には何人かヒトが住んでいて、そこは広大で混沌としているが、いつまでも生きながらえるつもりがある。どこ
の誰だか知らないヒトとの出会いの準備はこの場所で行われていて、また今まで出会った人たちともここで会える、い
つでも。身の内に起こる精神生活の事件は、必ず外へ現れでてしまう。それを逃げ隠すような道ではきっと歪んでしま
う。信じるべき箇所が見当たらなくなってしまう。

それを知ってもらうには、やはり体当たりしかないのだろう。
それで傷ついて、平気。
道徳と正義
2013.12.2 Mon
無性に腹が立つ。
道徳とか正義とかいう言葉に、無性に腹が立つ。
だいたい正義なんて言葉が使われる時というのは大概において一方からの視点でしかないことが多い。
人間の関係が一方的に決定してしまうことはまずあり得ない。
弱者も強者もそれぞれに己があって、それぞれに生きている。
双方からの視点を含んで、なお自分を押し出すときに「正義」なんてものに寄りかかる必要はまったく無いし、
むしろそんな言葉を出してしまえば自分と言う存在はくすんでしまう。
なぜなら相対する他人は、そっくり自分だからだ。
もっともらしいような顔をしていてその実あやふやな「正義」なんて言葉を持ってこられたら何処に人間がいる
のか分からなくなってしまう。

最近ではテロリストなんていう言葉があるけれども、アレにも虫酸が走る。
恣意的に悪者を作り出すからだ。
いったい善悪の二元的なモノの見方はどこまで膨らんでしまうのだろうと不安に駆られる。
悪びれもせず、恥じることもなく「私は正義側です。」だなんて感受性の何処かが腐っているとしか思えない。
そういう態度をとる面々は殆ど例に漏れずそういう正義観を押し付けて来たりする。
この押し付けがましさの根拠はなんなんだろうと観察すると、その背後に「絶対正義」の精神的安全地帯。
ハシタナク無礼で幼稚だ。
さらにいえば傲慢だ。
言い過ぎに聞こえるかもしれないが、そのくらい腹が立つ。


改めて言うまでもないと思うけれども、絶対悪だとか絶対正義なんてモノはどうしたって時代にしばられてしまう我
々人間にはわからないことだし、僕は本当のところ、そんな悪だの善だのなんて、言葉遊びのたぐいだと思う。

「人間とは何だったのか」が分かるのは人間が栄光とともに消滅した後のことでなければならない。
だから、最後の人間は朗らかでいてほしい。
なんなら、僕が最後の人間でも構わない。

良いも悪いもない、善も悪もない。

お互いに逃げるような姿勢でなく、「絶対に今ここに存在している」という気迫をとことんまでぶつけ合えば、社会
的な常識だの、時代的な道徳観だのを軽々と飛び越えて混じり合うことが出来るか、混じり合えずとも朗らかに存在
を確認できるはずなのだが、相手にその気が無ければこの信念もまた虚しいモノである。

けれども、この信念こそが人間に会う唯一の方法だと思っている。
栄光
2013.11.21 Thu
ここのところ訃報が続いていて少し寂しいのだけれど、世の中を見渡してみれば
それはどこか晴れがましいことでもあるような気がする。

「いつ死んでもかまわない」なんて言う風には僕は言わないけれど、「いつ死ん
でも面白いだろうな。」くらいには思う。というのも、人間は死ぬときこそ全方
向に開ききっているのではないかと思っているからだ。まあ、痛いのは嫌だが。

生きているだけで素晴らしい、なんて僕には言えない。社会を見れば暗雲立ちこ
めているし、実直な視点からは今の世のなかに良いことなんて見つけ出せないの
ではないかしら。などと皮肉っぽく言ってみたが、そんなことよりももっと重要
なことは、我々は「生きている」ということがなんなのか、いまいち良くわかっ
ていないのではないかしらん。寝て食って何にも疑わず日々をコナしていて、い
ったいソレで本当に人間が「生きている」と言えるのか。断じて違う。ような気
がする。だからと言って「自死は脱落者」とも思えない。
さておき、もっと振り返れば、だいたい本当にいつ生まれたのか、僕は。
僕個人を振り返ってみても、物心つくソレ以前の記憶はうすらぼんやりとも見え
ない。当然、生まれた記憶がない。母に聞けば確かに産んだのだろうが、僕は知
らない。
いつ産まれたのかもわからない、生きているとはなんだか良くわからない、そん
な僕も、いつか死ぬらしい。なんなんだ、いったい。

そんな疑惑から「何度でも生まれてやろうじゃねえか。」という覚悟にいたるわ
けだが、ひらいていくのが人生なのだとしたら、どのゴールもひらききったとこ
ろにあるはずだ。まあ、「死がゴールだ」とも、思わないのだが。死後の世界と
か、そういうシロモノではなく。なんにしろソレはその時まで消えないのだ。

自殺するヒトがいる。
病気で亡くなるヒトがいる。
事故で亡くなるヒトがいる。
死に方は、いろいろだ。

けれど、どんなカタチであれそれは一個が終わる栄光の時だと思う。