大福 - daifuku -
All What Human beings Do Is Music!

人生のことを考えてみる

自分
2019.10.12

このところここにいるのが自分なのかどうなのか怪しい。

そういう時間を過ごしている。

よく笑う。

これがいったい本当に俺なんだろうか。

んー。

 

もう少し闘ってみる。

ここがひとまずの場所だ。

 

身体
2019.8.16

髭がのびたり、爪が伸びたり、夢を見たり。

身体は一時も休みはしないのに、

ぐるっと見渡してみてニンゲンてのはなんでそんなに暇なんだろうと思う。

 

僕はスケジュールの管理がめっぽう下手で、それはそれは困った感じなのだが、

それでもいつでも目のまえにやりたいことがあるので暇が全然ない。

 

そうだった、あたしにゃ暇がないんだわ。

 

よおし。

2018.9.26

その時、その瞬間

 

自分の責任を放棄して

 

他人に責任を押し付ける

 

その不潔なことと言ったら

 

 

恥を知れ、熊坂

祭りの後
2018.9.17

寝不足もあってか、切ない気持ちで胸が引き裂かれそうだ。

 

祭りの後のこの侘しさはなんなんだろう。

 

虚無と言うのだろうか。

絶望と言うのだろうか。

 

世の中の全てに手応えを感じない。

身体中から力の抜けるような。

だあれもいないような。

 

だれか。

だれかいないか。

 

ああ、そうか。

こうやって生まれ直していくんだな。

参加しろ
2015.2.28

思えばエライ人に憧れちまったもんだと思う。
おかげでこんなにツライ。

誰にでも、誰かに憧れるという時期は来るのだろう。
その期間はナニかとてつもないエネルギーを育む重要な時間だ。
それは大切にしなければならない。
「憧れ」という色彩鮮やかな気持ちを手放してはイケナイ。
その中心にあるのが僕の命そのものだったのだ。
いったん手を離してしまっていたならば、元の木阿弥。
ずるずると平々凡々な毎日にくすぶってしまったろう。
猛烈に憧れたもんだ。

自分の生命に響いてきた憧憬の対象というのは、
己の身の内側にはじめから持っていた力だったのだ。
これは本当だぜ。
憧れることが出来たのだから、
そのように生きることも出来るはずだ。
というか
そのように生きることが出来るのは、僕以外にはいないのだ。
僕しかいない。
俺にしか体現できないことが俺の中でもう育っていたのだ。
根本に触れたのだ。

憧れるとかいうと、
「なんで自分はこの程度」だとか言ってしつっこく羨んだり、
「イイなぁ、あの人はあんなに…」なんてうじうじと妬んでみたり、
そんな風にイヤラシく立振舞う人が多い。
ソレじゃあダメだ。
備わっていた才能だとか、生まれ育った環境だとか、
いちいち比べて消極的にちぢこまっているのでは
ナンにもはじまらない。
卑しい身分に自分で自分を落とし込んで
ネチネチとやっかむなんて卑怯だし卑猥だ。
やってみろ、と思う。

言ってみれば、憧れのアノ人なんてものはマボロシみたいなもんだ。
それは自身の大きさのことだ。
そういう世界に、積極的に参加しろ。
その世界は他人のモノではない。
俺の人生だ。

この仕合わせが天命なのだと腹をくくって、勝手にやってのけろ。
ダメでもともと
ヤケクソで、いい。
やってみたらいい。
「やってみせる」
その決断をしたときに、
世界は全て新しくなる。
何度でも決意しろ。

途中で降りたりしない。
降りちまったら、
全部嘘になっちまうだろう。
貫く。
これは僕という存在の証明なんだ。

太郎さんよう
おかげで人生が楽しくて仕方ないぜ。

独り
2015.2.23

どんなに稚拙で幼稚だろうが
どんなに己の感触がちっぽけだろうが
どんなに恥ずかしい道筋だろうが
どんな過ちを引きずっていようが

ヒトというのは
その背中にたった一つの宇宙を背負って
人類全体の運命を請け負って

たった独りで
立っている。

運命を
掴みとれ。

うちひらけ。

無条件なオレ
2015.2.16

三日坊主、けっこうじゃないか。
その一瞬が充実していたなら。
「継続は力なり」なんて言葉もそりゃケッコウだけれど、
こっちは一生をオレ全体で不器用に生きてんだ。
一生だぜ。
一面だけ取り上げてどうする。

人間は産まれた時には限りなく無条件に生きている。
その輝きは誰もが知るところだろう。
それがいつのまにか歳を重ねるにつけ条件によってがんじがらめになっていく。
それで人間が拓けていくのならそれも良いのかもしれないが、
無条件こそ無限の広がりを持ち得ると僕は思う。

国籍、学歴、職歴、立場、年齢、性別、ツベルクリン反応、郵便番号の如何…。
そんなモノはいっさい関係ない。
そんなものを拠り所にしていたら、見えるもんも見えなくなっちまう。

一生の約束など蹴飛ばす。
明後日の約束も破棄だ。
別段明後日の約束など無いけどな。

どんなに粛々と進む日常の中だろうが
本当は瞬間の後にナニが起きるか解らない世界なんだぜ。

オレの精神を縛る一切を切り捨てる。
できる限り。

充実の大仕事にいくのだ。

無条件に生きていくというのは
とんでもなく難しい試練のようなモノだが
それをやってのけてみよう。

キレイゴトではなく
我が一生は我がタマシイの実験場なのだ。

拠り所の無いオレ。
おっかねぇなあ。
わくわくすらぁ。

雄々しくあれよ、熊坂義人。

愛しているなどとわざわざ言わないよ
2015.2.15

この人間の世の中というのは全てが愛で出来上がっていると思う。
愛憎なんて言う言葉があるように、
憎むのもまた愛だ。
ソクラテス。
可愛さ余って憎さ100倍とかっていうね。
いい言葉だな。

君の為を思う自己保身も愛だし、
いがみあいも、
殺しあいも、
信頼しあうも、
ねるのも。

だからつまり世界が救われていないという欺瞞を信用する者にとってしてみれば、
この世は愛によっては救われない。
僕は戦争すら愛によって行われていると思うのだ。
なにが歪んでいるかなんて、本当のところは誰にも解らない。

「愛している」などとわざわざ言葉にしないのは、
生きている以上、当然の事柄だからだ。
だいたい最近は「好き」の延長に語られる薄っぺらい言葉としてしか使われていない。
そんなもの愛でも何でも無い。
多かれ少なかれ「好き」の裏側には「嫌い」が張りついているもんだ。

「正直でありなさい」とキリストは言ったらしいが、
それは自分に対する挑戦だと思う。
自分に正直であろうとすると恐い。
自分にとって心地いい面だけが正直という訳ではないからだ。
けれど恐いからこそそこへ立つ。
そうしなければ、全貌など見えてこないものだ。
全貌を受け止める。
それをいったい何処まで引き受けられるのか、
それが自分の愛の大きさを試す唯一の手段だ。

それを確かめる手段など要らない。
ただ自分が実感すれば良いことだ。

ズタボロだっていいじゃないか。
いいじゃないか、傷だらけで。

むしろ誇らしい。

世界が存在している。
君という人が世の中にいる。
それだけで世界は救われていると思う。

隠遁しない
2015.1.29

音楽でなくとも、
文章でなくとも、
生きられるではないか。

昨年、そう思った。

生活を思えば、何時やめてもかまわないのだし。

隠遁的な道は
強烈に自己批判をしないのであれば
堕落まっしぐらだ。
ストレスからの回避が、手に届く距離にある。

諦める。
誤摩化す。
目をそらす。

逃げる。

窮屈。

物事を楽観的に見る性質の僕は
外向けなのかもしれない。

失敗は、喜ばしいことだ。
その時、逃げなければ勝ちだ。

失敗は、嬉しいことだ。
その時が、勝負だ。
己の人生の道を拓くそのチャンスだ。

本当のことを言えば、成功しようが失敗しようが、
そんなモノはどちらでもかまわないんだろう。

とにかく世界は、
他に人がいなければ、なりたたぬ。
他に人の溢れるこの世界を廻り強烈に自己と戦うのだ。

勝つか負けるか、それは己の胸の内に。

覚悟など、後で持て。

歴史
2013.12.8
熊坂は職人の家系だ。

どうという事でもないことなのだけれど、気に入っている血筋ではある。
僕のじいさんが福島から埼玉へ出てきて経師屋をはじめたらしい。父の代、母の代があって今
兄が受け継いでいる。ので僕は好き勝手やっている。はずだったのに、この冬から僕は酒蔵で
働いていて、結局職人仕事と呼ばれる部類の事に携わったりしているところが、やはり熊坂な
のかしら。

ところで、歴史というものは、今現在このときに作用する時、それが生きている根拠となり、
また拠り所となり、ときに励まされるものだと僕は思う。なぜ今ここにいるのか。それが歴史
の問題なのだ。夢物語や、ロマンチックな憧憬だけでカタヅケられてはいけないものだ。僕ら
はどうやら今現在、現代を生きているのだけれど、どうやってここにたどり着いたのか。それ
がなければソンザイが危うい。本当に頼りないものだ。
現代的な問題として日本といわれているこの場所は、歴史から分断させられているような気が
する。故にここに住むヒトが作る社会に問題が曖昧だ。「江戸の昔」などと言うけれど、本当
にここにいる我々の価値を知るにはもっと古代まで繋がらなければ問題は解消されないような
気がしてならない。さらに言えば、つながりを持ったまま、それを覆さなければならないので
はないか。

熊坂は聞くところによれば、江戸時代北陸に住む刀鍛冶の一族だったそうだ。相馬藩の殿様に
一族ごと呼びつけられて移住したんだそうだ。僕は、その末裔にあたるのだろう。それこそ「江
戸の昔」までしか辿れていないけれど、本当はその向こうまで繋がらなければやはり無限の広
がりにはほど遠い。だいいち僕は江戸時代の職能的な区分けがあまり好きじゃない。

熊坂という血をいとおしく思うが、それなりに好きだからこそ、くそくらえ。
それを乗り越えようと思っている。

全ての人はかけがえの無い人物であるはずだ
2013.12.6
「自分が存在する事をいまここで証明したい。」
そういう生き物なのだと思う。人間とは。
「いま自分がここにいる」という実感を持つ。この充実がなければ人間的ソンザイもヘッタクレもない。

僕の場合「自分はこうだ。」と宣言して行動する事以外にその証明の道はない。「自分はこうだ。」と宣
言する事、ソレ自体がソンザイの宣言だからだ。どうしたってヒトには好かれたいという気持ちがあるか
ら自然とヒトに合わせてしまいそうになるけれども、それでは僕がいる意味がなくなってしまうから「嫌
われて結構」という心意気で覚悟を決めている。その結果、自分のコンプレックスを直視することになる
のだが、そんならそれでなお結構。無意識に育っていたバケモノをどうにか意識できる。どうやってこの
社会で活かしてやろうか。

ところで僕はヒトのそういう醜い場所にこそ個人の本当の面白みがあると信じているから、誰であれソノ
部分に興味があるのだけれど、そのバケモノは大抵の場合が無意識のうちに潜んでしまっていて表へ姿を
現さない。その中身は一旦口に出してしまえば何の事もないカレオバナだったりすることも多々あるのだ
けれど。うすら寂しい世の中で、人間の、手応えのある感触が欲しい。時折、ごく稀にそんな風に人間に
出会えたなら本当に嬉しく思う。

なんにせよこういう個人の精神内部の事情を引き受けてくれる相手と出会えるかどうかは人生において非
常に重要なポイントになる。そのカンケイの中で新しい人間が誕生する。それが本当の意味でのかけがえ
の無い人物だと思う。だからつまり、まず自分のアクションとして「自分はこうだ。」と宣言しなければ
ならない。そうしなければ、それを見届ける人物も現れ得ないし、結果としてのかけがえの無い関係も出
来得ない。


嫌われて、なお結構。
厄介な生き物だね、まったく。
生活に飽きる
2013.12.1
毎日を生活していると、それがどんな日常であれそのうちに慣れて来てしまう。
そこに危険があると思う。

慣れの中にヒソンんでいる危険は生活を確実に堕落させていく。普段ソイツは静かに押し黙っていて、
いったい本当にそんな危険があるのかどうか、生活の隅々を丁寧に見まわしてみても分からない。と
いうか、その殆どの場合が自分には意識できないものだが、あるとき何かのハズミで恐ろしい本性を
見せる。朝起きて、顔を洗いふと顔を上げ鏡を見たとき、靴を履いて一歩家を出たとき、夕飯を食べ
ているとき、その他生活のあらゆる場面で、急激な虚しさが襲って来る。呼吸のしどころがない空間
に落ち込んでしまったような感覚。

何か漠然と虚しい。

現代的には、そんな生活の隙間に、テレビ、インターネット、テレビゲームなど色とりどりの刺激的
な逃げ道が用意されているが、これでも埋まらない心の隙間に秘密の悪行なんかが忍び込むんであろ
う。

結局のところ自分で何かを創りだすのでなければ、本当にはその虚しさを救うことは出来ないと思う。
創るモノはなんでもいい。文章を書くのでも良いし、絵を描くのでも良い、料理でも良い、日記など
もいいのかもしれない。例えば、アイディア満載の発明品。例えば、青空に躍動する身体。
そういえばモノである必要もない。例えば、己独自の価値観、世界観。例えば、知らぬを知ること。
例えば、みずみずしい今日という日。
創り上げるモノは本当に何でも良いと思うし、三日坊主でも構わないと思う。生活の隙間を充実させる、
その瞬間こそが救いだからだ。

とにかく、その時の自分をそっくり映し出して、それによって自分が傷つき、また、それによって自
分が奮い立つような何かを創らなければ、虚しさから解放されることはないと、僕は思う。

生活への「慣れ」から来る虚しさは、本当に目に見えない塵のように精神に溜まっていく。これを放
っておくと生活の隙間は拡大し、精神生活は堕落の一途で、日常で何につけニブくなる。
物事に鈍感になることは、決して大人になることではない。人間として堕落していくことを意味して
いる。

そういうわけで、僕は曲を書くのだ。